| 伝統工法の今日的な意味〜農書にみる「人格を持った技術」 |
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近代土木技術は、河川や湖沼の日常的維持管理を市民の手の届かないものにした。行政や研究者が寄って立つ科学知には普遍性はあっても、専門分化が著しく地域を総体として把握できないという欠点がある。数値のみで構成した施策を地域に持ち込むことで、自然や生活のあらゆる場面での分断が生じ、地域の一体感が失われてしまう例が少なくない。実際に多くの河川や湖沼はこのような施策によって、地域の生活や文化から切り離されていった。河川や湖沼における水質汚濁や生物多様性の低下といった問題の背景には、この「分断化」がある。近代土木技術に偏重した発想を転換しない限り、水辺の再生を願う人々は主体的に水辺の保全や再生に関わることはできない。 伝統河川工法では、材料は現地調達が原則であり、技術もその土地に合った構造と仕組みを作り上げるもので、人々の生活とのつながりを意識したものであった。伝統工法には土地や住民と関係性をもった技術が使われていた。そこにはまた、生活者の経験知が生かされる場があった。今河川や湖沼と地域住民との結び付きを取り戻そうとする活動に必要なのは、伝統工法に見るような関係性を生み出す技術である。 アサザプロジェクトを構想したときには伝統工法に関する文献や資料なども参考にしたが、とくに、多くの示唆を得ることができたのが三河国の「百姓伝記」や甲斐国の「川除仕様帳」などの農書だった。農書は江戸時代に日本各地で作られた民間の農業技術書である。現代の技術書とは違い自然のきめ細かな観察や人間の五感を重視した技術が論じられ、またその内容は人生論にまで及び、実に多岐にわたる。とくに、わたしが農書から強く感じたことは、多様な分野を総合する個々の人格について論じている点である。つまり、技術が経験知の集成である人格と切り離されては語られていないことだ。このことは、20世紀に起きた技術の暴走(大量殺戮や自然破壊)を体験したわたしたちにはとりわけ大きな意味を持つのではないか。わたしたちに必要なのは、科学知と経験知の協働である。 |
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代表理事 飯島 博 |