足尾鉱毒事件

 明治以降の日本は欧米をモデルに急速に近代化を押し進めていった。足尾銅山は慶長年間から銅の採掘が行われていたが、明治以降の近代化の波に乗って急速に生産量を増大させていった。しかし、古河鉱業は生産優先で環境への配慮がないまま銅の増産体制をとったため、銅生産に伴い発生する鉱毒は垂れ流しとなり、渡良瀬川を流れ下り流域に重大な被害を及ぼした。被害は農産物にとどまらず、多くの人々が健康被害を被った。

 足尾鉱山では銅の精錬に使う燃料調達のための森林伐採や精錬所の排煙によって、周辺の森林が大規模に破壊されていった。足尾山地では約3000ヘクタール以上の森林が失われた。それにより、山は保水力を失い、渡良瀬川下流では洪水が頻発するようになった。東京に洪水と鉱毒が及ぶことを恐れた政府は、渡良瀬川と利根川の合流地域にあった谷中村を潰して遊水池にすることを決定した。上流での大規模な森林破壊に伴う洪水や、垂れ流しの鉱毒を食い止めるために、治水事業と称して旧谷中村を強制廃村に追い込んで造ったものが、現在の「渡良瀬遊水池」である。

 また、渡良瀬川流域は地域は田中正造をはじめとした人々によって、日本の環境保護運動が先駆的に展開された歴史的な地域でもある。正造が最後まで公害と闘ったこの地に残した次の言葉はあまりにも有名である。「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず、村を破らず人を殺さざるべし」

代表理事 飯島 博