種蒔く人に捧ぐ  木村龍男氏追悼 2003.9.25

 ふと、こんな逸話を思い出した。ある日アッシジの修道士聖フランチェスコが庭にニンジンの種を蒔いていると、そこに旅人が通りがかりきいた「もし、来週にも世界が滅びるとしたら、これから何をしますか」。聖フランチェスコはしばらく考えてからこう答えたという「このまま種を蒔きます。」
 箱の中から秋に蒔く予定だった野菜の種が山の様に出てきたという。彼の一番の楽しみは野菜作りだった。アサザ基金の副代表理事を務めてこられた木村龍男さんが8月末に亡くなった。木村さんは亡くなる一週間前に、「君に話しておきたいことがあるから」と言って突然私を病室に呼んだ。その日の午前中に昏睡状態に陥った木村さんは、午後には持ち直し、枕元に身を寄せた私に酸素マスクを付けながら2時間以上にわたって、まさに死力を尽くして話をしてくれた。その時に木村さんが話してくれたことは、敢えて今ここに書こうとは思わない。私の中で彼の言葉が芽を出し、しっかりと根を張り実を結ぶまでは、私の中で育てていきたいと思うからだ。
 湖は秋になり、アサザの種が実りはじめている。アサザの種は湖面を漂い、やがて岸に打ち上げられ、そのまま岸の上で冬を過ごす。種は厳しい寒さに晒されることで、はじめて春の到来を知り芽を出すことができる。寒さを知らない湖底に沈んだ種は芽生えない。
 木村さんは、アサザプロジェクトの発足当時のもっとも厳しい時期からの仲間だ。霞ヶ浦を再生するためには、もっとも大きな障害となっていた水源開発問題と取り組まなければならなかった。しかし、開発問題に取り組み始めると途端に多くの仲間が去り始め孤立した。折しも霞ヶ浦で世界湖沼会議が開催され、行政と市民団体のパートナーシップという甘い言葉があふれていた時期だった。それからは茨の道だった。
 湖沼会議の翌年(1996年)から私達の反対を押し切って国は霞ヶ浦の水位操作を開始した。この水源開発が生態系に重大な影響を及ぼすことは明らかだった。しかし、この計画の見直しを求める声を上げたのは私達だけだった。水位操作が始まりもう湖の再生は不可能と言われながらも、私達は毎春仲間たちとアサザの種を蒔き、夏になると育てたアサザを湖に植え続けた。植えたアサザの大半は水位操作に耐えられず消えていった。しかし、2000年秋に私達の申し入れがようやく国を動かし、それまでの水位操作を見直すことになった。今は、木村さんが植えたアサザも大きく湖面に広がり黄色い可憐な花を咲かせている。
 妥協せず筋を通し続けたことで、今日のアサザプロジェクトがある。本当に湖や人々の為になることは何か。常に、自分や組織の利害を越えるための勇気が求められる。組織と個人を使い分けるなどといった卑怯な生き方とは彼は無縁だった。そして、彼は常に自分の組織に厳しい視線を向け続けてきた。
 アサザ基金の法人化は木村さんの力によるものだった。法人になった後の運営体制も木村さんが作り上げた。木村さんはそれまで組織の会計などしたことがなく、よく相談に来たという話を、お別れの会で彼の友人から初めて聞いた。
 木村さん貴方は本当にたくさんの種を蒔いてくれた。貴方の蒔いた種は必ず芽生え大きく実を結ぶに違いない。なぜなら、貴方は冬の厳しい寒さを恐れる人ではなかったから。

2003年9月25日 NPO法人アサザ基金 代表理事  飯島 博

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