出会いから生まれる世界 2004.9.20

 優れた芸術作品は単に自己を主張するだけではなく鑑賞する者との間に対話を生み出すものだ。新しいアイデアや「発想の転換」は、よく人と話している最中や自然や芸術作品と対話している時に生まれる。自分の世界と他者の世界がひとつに溶け合い、その場から新しい何かが生まれて来る。私はそこに出会いがもつ豊かさをいつも実感する。

 今日も世界のどこかで戦争やテロが起き多くの命が失われている。近頃は文明の衝突などという言葉を耳にするが、私には「自己完結した世界同士の衝突」が世界を被いつつあるように見える。自己完結した閉じられた世界と言うとすぐに民族主義や国家主義を思い出すが、グローバリズムにも同じ要素があるように思える。なぜなら、とくに途上国の人々にとっては、グローバリズムとは外から持ち込まれた価値や基準の強要であり、地域に根ざした多様な生活文化や自然環境の破壊そのものとして受け取られているからだ。先進国、とくに米国の世界戦略は自己完結した閉じられた世界で全世界を被う試みとして見られる。そして、それに対抗するもう一方の自己完結した世界が台頭しつつある。極端な民族主義や宗教運動がそれだ。自己完結した世界同士の衝突は暴力の連鎖を生む。グローバルスタンダードとは、他から持ち込まれた基準の押し付けになりかねない。そして、それが強力な中心を持ったネットワークによって展開されたときに、基準に合わないものはことごとく淘汰されていく世界が出現してしまう。国連ミレニアム宣言はグローバリズムの転換を訴えている。

 自己完結した世界は私達の社会の中にも広がりつつある。自己の世界や仮想世界に閉じこもった人々が予期せぬ行動をして起こす事件が絶えない。事件は彼らが自分で作り上げた基準を他者や社会に強要するときに起きる。その背景には、目に見えない基準(閉じられた世界)が社会を被い多様な生き方を拒絶するような閉塞感がある。
 基準は比べるための道具に過ぎない。それに絶対的な価値を持たせてはいけない。しかし、基準は便利で社会に浸透しやすく、人々から多様性を見えにくくする。霞ヶ浦では水質基準という基準が浸透し力を持った。そして、水質基準と関連する「汚れの指標」としてのアオコが湖のシンボルになった。同時に湖の豊かさや可能性が見えにくくなり、人々は展望を見失った。この閉じられた世界を越えるために、アサザプロジェクトは始まった。

 アサザは基準や指標とは無縁なシンボルだ。今でも時々専門家を名乗る人達から「アサザでは水はきれいにならない」という批判を聞くが、アサザプロジェクトは元々アサザで水をきれいにする運動ではない。第一に特定の生物だけで湖の水質が改善できるわけがない。湖の水質は多様な生物の連携プレーによって改善される。アサザはそのネットワークの一員にすぎない。アサザは湖の多様性のシンボルである。
 アサザプロジェクトは、湖でアサザと出会うことで生まれたアイデアや「発想の転換」から始まった。その目的は、湖の水質を改善し自然を再生するための社会システムの構築に他ならない。私達が広げる中心のないネットワークは、閉じられた世界同士が衝突する場ではなく出会う場であり、そこから共生社会に向けたアイデアや「発想の転換」を生み出す場である。人生は出会いによって創られ、世界もまた出会いによって創られていく。

2004年9月20日 NPO法人アサザ基金 代表理事  飯島 博

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