湖が存在の息吹で満たされるとき 2005.1.1

  最近、中学校で講演をする機会が増えた。中学生を前に話していると、社会の枠組みにはめ込まれていくことへの反発や漠然とした不安を抱いていた頃の自分をいつも思い出す。そして、彼ら彼女らに向かって語りながら「可能性」という言葉の意味を再発見している。授業や講演は私自身が自分の中で何かを発見する現場なのだ。

  丁度彼ら彼女らと同じ年頃に、セザンヌの風景画に出会った。その時から不思議な感覚が私の中で芽生え始めた。目の前にあるのは、自然の景観の一部を切り取った、額縁(枠組み)に納まった一枚の絵に過ぎないのに、そこから世界の広がりが感じられる。むしろ、枠組みがあることで逆に世界の広がりが表現されているのかもしれない。そんなもやもやとした自問自答を繰り返した。後になってから、枠組みとは画家が自然と向き合いながら、自ら学び取り、自らが選び抜いた様式や技法であることが分かった。つまり、自分の言葉を見つけ、自分の言葉で表現することなんだ!私はそこに或る覚悟を見た。

  今から思うとあの頃の自分はずいぶん力んでいたと思う。それにずいぶんと遠まわりもした。でも、あの頃の感覚は生き続けている。そして、あの自問自答も。今も時々美術館でセザンヌの風景画に出会うことがある。無心になって絵の前に立っていると思わず深呼吸をしている自分に気づく。一枚の絵から広がり溢れる何かが、私のまわりの空間と時間を満たしているからだ。それは「存在の息吹」ではないかと、私は最近思い始めている。画家が描こうとしたのは、単なる風景ではない。ただ綺麗に整ったものでもない。存在そのものだったのだということに、ようやく私は気付き始めた。

  ある意味、授業や講演をするというのは、自分を額縁に入れて見せるようなものだと思う。つまり、自分という存在を他人様の前に晒す行為だ。しかし、人間は誰もが自らの存在を人格という枠組みを通して社会に表している。そこに、ひとつの可能性がある。ひとりひとりの人格を通して、存在の息吹が社会全体に世界中に広がること、それは社会が持つ可能性である。それは同時に、すべての人間が持つ可能性でもある。ここから私は個々の人格が機能するネットワーク型社会を展望する。

  存在とは生成である」という言葉を残したのは哲学者ニーチェだ。真の意味での存在とはただ在り続けることではない。私達は未来に向けて自らを投げ出すことで、可能性の扉を開くことができる。だから、社会を変える方法はひとつ。自分自身が変わることだ。それは、存在の息吹を生み出す枠組み(人格)を自らの手で創り出すことに他ならない。 今年10周年を迎えたアサザプロジェクトも、常に可能性の扉を開き新しい次元を生み出すことで、はじめて存在し続けることができる。私達の百年計画は今年5年目を迎えた。いつか湖が存在の息吹で満たされるとき、湖も私達の社会も再生するにちがいない。

  講演の最後に中学生たちにこんな言葉を贈った。「可能性の扉を開くもの。それは、かけがえの無い君達ひとりひとりの夢です。」

2005年元日 NPO法人アサザ基金 代表理事  飯島 博

[巻頭言一覧に戻る]
[HOME]