| 湖に咲く花〜風姿花伝 | ||
今年も湖の方々で満開のアサザを見ることができた。流域の小学生をはじめ多くの人々の長年の努力が少しずつ実りはじめている。 湖畔に佇みながら湖面にゆったりと波打つアサザの花々を眺めているとふと不思議な感覚におそわれることがある。それは湖の時間とでも言ったらいいだろうか。湖に分厚く層を成した時間が存在しているという感覚である。過去も現在も未来も層を成してゆったりと波打ちながらそこに在るという感覚だ。 能の舞台を見ていて同じ様な体験をしたことがある。それは世阿弥の代表作である「井筒」を見たときで、そこに表現されていた存在と時間の奥深さに強い感銘を受けた記憶がある。世阿弥が晩年に完成した複式夢幻能にはまさに層を成した時間が表現されている。その舞台にふと咲いた花のように役者が立つ。このような現代人とは異なる時間感覚を、かつて道元の文章や西行の和歌を読んでいて感じたことがあった。そこに共通して在るのは「存在の豊かさ」である。 現代人は時間に追われている。私たちにとって時間は未来に向かって進む線に過ぎない。だから、未来に向かって発展していくために過去を捨ててきた。それが近代化だった。ときには発展のためにと言って現在も未来さえも犠牲にした。それが公害や環境破壊、自然破壊となって表れた。社会だけではない。ひとりひとりの人間も層を成した時間を失ってしまった。人々はレールの上を進むがごとき人生観を持ち、社会には世代間の隔絶も生じた。層を成した時間はばらばらに層ごとに分離してしまった。それが現代だ。 自然再生について議論をしているとよく何年前の自然に戻すのかといったことが話題になる。このような議論も実は現代人の直線的な時間感覚を前提としていることが多い。だから、自然再生と言うと必ず「自然が豊だった頃の貧しい不便な生活に戻るのは嫌だ」といった意見が出ることになる。 もちろん時間を過去に遡ることなどできない。しかし、層を成した時間が在れば過去を掘り起こすことはできるかもしれない。いや、もっと自分の感性に従って言うとしたら、自然を再生するということは過去現在未来という時間の層を越えて流れる何かを取り戻すことではないかと言いたい。 湖に数十年前の過去に在った植物の種子が湖底には眠っている。何かの機会にその種子が浅瀬やヨシ原に運ばれ日光を受けて芽生え、生育をはじめて群落を作りいつか花を咲かせるかもしれない。ひとつの例だが、そこには層を成した時間が在る。そして、それぞれの層の境界を越えた流れが生まれたときに花は咲くのではないか。そのような時間の層を超えた流れを生み出すためには、私たち自身がさらには社会が層を成した時間への感性を取り戻さなければならない。それは別の言い方をすれば私たち自身の存在の豊かさを取り戻すことでもある。人々が過去現在未来を結び付ける存在としてその土地に立つことによって、そこに層を成した時間が生まれ、自然と地域の真の再生が始まるのだと思う。 世阿弥は父親である観阿弥から芸の教えを受け継ぎ「風姿花伝(花伝書)」を書いた。それから六百年の長きにわたってこの「心から心に伝ふる花」は生き続け、人々に様々な示唆を与え続けてきた。湖の風姿花伝。私は湖に咲く花を心から心に伝えていきたい。 |
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| (代表理事 飯島 博) | ||