| モーツァルトの三つの花 子どもと大人が協働する社会 2006年4月1日 | |
| 誰しも子どもから大人への過渡期に、何かを失う感覚、喪失感があるものだ。私の場合小学校の高学年から或る感覚が薄れていくような気がしてきて、その何かを失いたくないと強く思うようになった。世阿弥に、「年々去来の花」という言葉がある。幼年期から老年期まで人生のそれぞれの時期に在る花々を大切に持ち合わせ自分の芸に活かせという意味らしい。わたしはこの言葉から三つの花を思い浮かべた。それは幼年期の「天性の花」、壮年期の「構築された花」、老年期の「体得された花」である。世阿弥の先の言葉は人生という「層を成した時間」の中でそれらの花を協働させることを述べているのではないか。しかし、過去を捨て去り前に進むだけの現代社会では「花々の協働」は生じ難い。 縦割り化が進んだ現代社会でもっとも困難な課題は、総合化である。わたしはひとつの仮説を持っている。「総合化の困難な社会」の背景には、社会の作り手としての子どもと年寄りの不在があるという仮説だ。現代では働き盛り世代(壮年期)だけが社会の作り手で、子どもや年寄りは「お客さん(受け手)」に過ぎない。子どもは未熟な大人や不完全な大人であり、年寄りは仕事が終わった大人や社会から外れた大人になってしまった。 つまり、現代社会には子どもの感性「天性の花」そして年寄りの経験「体得された花」が活かされていないのだ。わたしはこのふたつの花には、世界全体を結び付けて「丸ごと何か」を感じ取り理解しようとする意志、つまり「総合化への意志」があると思う。ふたつの花を外に置き、「構築された花」を目指す現代社会は、どうしても知識や技術に偏りがちになり縦割り化が進んでしまうのではないか。総合化に必要な感性と経験を失った歪 な社会がそこには見える 今年はモーツァルトの生誕250年である。モーツァルトの手紙に次のような一節がある。「・・・構想は、あたかも奔流のように、実に鮮やかに心の中に姿を現します。しかし、それがどこから来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とてもこれに指一本触れることはできません。・・・私は丁度美しい一幅の絵あるいは麗しい人でも見るように、心の内で、一目でそれを見渡します。」全体を丸ごと感じ取る希にみる鋭い感性をわたしはこの一節から感じた。モーツァルトは、「天性の花」「構築された花」「体得された花」を豊かに協働させることができた希有な例ではないか。小林秀雄は有名な随筆「モオツァルト」の中で「熟練と自然さの異様な親和」と述べている。 モーツァルトは確かに天才であった。しかし、わたしは三つの花の協働は様々な形ですべての人に起きるものであり、人生に真の豊かさを与えるものだと考えている。だから、アサザプロジェクトは三つの花の協働を生み出す場にしていきたいのだ。わたしが小学校区という空間に着目したのも、大人達によって縦割り分断化された流域という空間を、子ども達の感性で「丸ごとの空間」に戻すためだ。まず、子ども達の感性が息づく日常空間(学区)を基本単位にして、さらに学区のネットワーク(子ども達の感性)で流域を覆い尽くす。そして、子どもと大人が協働する社会をつくる。 わたしは三つの花の協働が人々の中に次々と生まれ、花々で覆われた社会を想像する。湖面を彩るアサザのお花畑に似合う音楽は、やはりモーツァルトだろう。 |
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| NPO法人アサザ基金 代表理事 飯島 博 |