| 湖が歩く〜動的なネットワークの中で 2006年10月1日 | |
| 雲の割れ目からぼんやりと水色の空が顔を出し広がり始めると、さっきまで空一面を被っていた雲が実は動いていることに気づく瞬間がある。雲の流れの中に浮かび上がる水色は、わたしの中にある霞ヶ浦のイメージと重なる。そして、平らな大地にもどこか空のイメージがある。空と大地が溶け合い一体となった感覚と言ったらいいだろうか。 鎌倉時代の名僧道元が著した正法眼蔵に、「青山常運歩」という言葉がある。道元は「山は常に歩いている」と言うのだ。道元らしい常識外れで難解な言葉だが、そのまま自分の中に投げ込んでみると、雲のようにイメージが浮かんでくる。わたしは道元にならって、「霞浦常運歩」と言ってみたくなった。霞ヶ浦は常に歩いているのだ。 確かに山は不動なものの象徴であり、湖は「静けさ」、つまり静的なものの象徴である。だから、わたしたちが、山や湖を不動なもの静的なものとして見ようとしていることも事実だろう。しかし、不動なもの静的なものとして見ようとしているのは山や湖だけだろうか。 わたしたちは知らず知らずの内に、中心を求めていないだろうか。しかも、その中心は不動であるほど安定的(静的)であるほど良いと思っていないか。しかし、そのような中心を求めれば求めるほど、自分の世界は狭くなり世界全体を被うことができなくなる。それぞれが不動の中心を持ちながら、それぞれの世界の中だけで可能性を探っている。それが縦割り化した社会ではないかと思う。現代社会の限界がここに見える。 わたしは中心の無いネットワーク社会をいつも考えてきた。そのネットワークは組織化されたものではない。ネットワークは中心を持つことで組織化され、静的なものになる。わたしが考えるネットワークは全く違う。それは常に全体が動き展開し続けるネットワークであり、動きが無くなった途端に消滅するネットワークである。 社会の中につながりを生み出すもの、それは新しい価値や意味である。社会に新しい価値や意味が投げ込まれ、それらを共有する人々や組織が次々とつながりネットワークを形成していく。新しい価値や意味は自然との共存という新しい文脈を母胎にして誕生するものだ。なぜなら、生態系は中心の無いネットワークであり、自然界は常に動き循環し続けているからだ。 中心の無いネットワークによって、社会の中では従来はつながるはずの無かった者同士がつながり始める。想定外のつながりが生まれることで、つまり新しい世界が開かれることで、自分や組織の中に眠っていた価値や意味が目覚め浮上してくる。実際に、アサザプロジェクトが展開していく中で、わたしはそのような場面を何度も目にしてきた。そんな時に、わたしは人間や社会の中に無尽蔵に潜在している価値や意味の豊かさを感じる。 わたしたちは、これまで不動の中心を持った静的で限定された世界の中で「可能性」を求めてきた。だから、問題の解決を目指し「可能性」を求めてもすぐに限界が見えてしまうのだ。限界やあきらめから抜け出すために、わたしたちに必要なことは動き展開する世界を取り戻し、世界の「潜在性」に目を見張ることではないか。 自然のネットワークに重なり合う動的なネットワークは、社会に思いも寄らない価値や意味を次々と浮上させるだろう。不動のものと信じていた頭上の雲が動き出した時、雲々の間から差し始めた光の網目のように、目覚めたばかりの価値や意味が「水色の湖」の周りを被い始めるに違いない。 空のような大地の中で伸びやかに広がる湖の姿は、まるで大あくびでもしているようだ。今、目覚めたばかりのようにゆったりと、霞ヶ浦は今日も歩いている。 |
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| NPO法人アサザ基金 代表理事 飯島 博 |