| 口ごもる河童たち 2007年5月5日 | |
| こうして秋田に通うのも四年目に入った。東北新幹線こまちで片道四時間の旅も、はじめの内は疲れを感じていたが、最近はすっかり慣れてしまい、読書や思索の時間として楽しんでいる。車窓の風景を眺めるのも楽しい。ようやく芽吹きの色を見せ始めた東北の山々を眺めながら、新しい学年になったばかりの子ども達との出会いに思いを馳せ、この一年間の授業の構想を練った。 こまちは盛岡を過ぎると在来線に入り田沢湖方面へと向かう。雪が所々に残る深い森の中を走る列車は、新幹線とは思えない程ゆっくりと進む。車窓をぼんやりと眺めていると、キツネや野ウサギの足跡が見られ、ときには猿や野鳥の姿を見ることもある。新幹線に乗りながらの自然観察というのもなかなか良い。 車窓からは山野草もよく見られる。しかし、奥山の森にはまだ緑がほとんど無い。ただ、森の地面の所々に蕗のとうが出ているのが見える。雪が消えたばかりの茶色の地面から高さが二十センチくらいに伸びた蕗のとうが、よく見ると森一面に散らばっている。そして、ほとんどの蕗のとうは花を付けている。蕗はキクの仲間で、小さな花が集まった円盤状の頭状花を茎の先端に付ける。頭状花の色は薄緑がかった白色で、眺めていると何となく河童のお皿を連想してしまう。そう思った途端に、車窓を不思議な風景が流れ始めた。森の中にはたくさんの小さな河童がじっと無言で佇んでいる。河童たちはようやく雪は消えたが本当に春が来たのかどうか、半信半疑の様子で身動きもできずに周りをうかがっているようだ。 蕗のとうを見ていて、ふと卒業式間際に会った霞ヶ浦と八郎潟の子ども達の顔が脳裏に浮んできた。三月にわたしは運良く卒業式を控えた石岡小学校と大久保小学校の六年生にそれぞれ会うことができた。この二校の六年生は昨年交流をした。わたしはどちらの子ども達とも四年生の時から付き合ってきた。まだ幼さが残っていた四年生の頃にくらべると今は随分大人っぽくなったが、でもやっぱり子どもだと思う。こちらから話しかけても、以前の様にすぐには言葉が返って来ない。少し困ったような戸惑っているような彼ら彼女らの表情が好きだ。 石岡小学校の六年生は三月にアサザプロジェクトの見学に来た二十五カ国の大学生たちと交流会を行った。いい卒業記念になったと思うが、子ども達には自由に思いや考えが伝えられないもどかしさが残ったに違いない。その日の夜は、わたしが学生たちが宿泊していた潮来市内のホテルで講演を行い、深夜まで学生たちと討論をした。最後に学生から「みんなに望むことを一言」と言われ、とっさにひらめいた言葉をそのまま口にした。「口ごもることを恐れずに。」 現代社会では与えられた問いに即座に答えを出すことや、考えや情報を的確にまとめることなどが重視されている。優秀な学生はその能力が高い。しかし、それは或る流れの中で行われていることを見逃していないか。わたしはそれを「近代化の文脈」と呼んでいる。近代化の文脈に当てはまる答えや言葉を瞬時に当てはめ、文脈に合わせて情報を整理してまとめ、先に進む。私達はそれをテストの答案用紙に向かうように、全く無意識に日々行っているのではないか。ところが、その文脈から外れると途端に言葉が見付からなくなる。すると、人は一生懸命に言葉を探しはじめる。それが「口ごもること」である。でも、多くの人はそもそも別の文脈があるとは考えない。だから、「口ごもること」は格好が悪い。 近代化の文脈は大きな壁に突き当たっている。環境問題や国際紛争などである。そして、人類は新しい文脈を模索し始めている。それは近代化の文脈の中で使い慣れた言葉を捨て、自然との対話を通して新しい言葉を見付け出す作業である。そのためにあらゆるものを読み直し読み替え、言葉をつむぎ直していく創造的な場が、アサザプロジェクトである。 あの時に口ごもっていた子ども達は、大人社会の文脈のようなものを感じ取り、ある種の違和感や戸惑いを感じ始めていたのかもしれない。人にはじっと立ち止まり、何かを見つめながら口ごもる季節がある。でも、その後には必ず自分の言葉がつぎつぎと芽吹き始める。そのように季節は繰り返し訪れる。 田沢湖や角館などの内陸部にはまだ桜前線は届いていなかったが、新幹線の終点秋田の付近はすでに桜が満開を迎えていた。幸運にも今年二回目の花見ができた。秋田市周辺では雪の鳥海山を背景にソメイヨシノやヤマザクラが満開だった。ソメイヨシノは木々が光の衣を纏ったように晴れやかに、ヤマザクラは森に出現した光の膜のように神秘的に感じられた。自然はまた様々な差異を通して「口ごもる私」に言葉を与えようとしているのかもしれない。 |
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| NPO法人アサザ基金 代表理事 飯島 博 |