| 波打つ文様〜言葉にならない言葉 2008年2月3日 | |
| 子どもと対話をするためには、いつも「生きている言葉」が必要となる。私が考える「生きている言葉」とは、「言葉にならない言葉」「声にはならない声」が渦巻く世界と接することで、常に新しく生まれ変わる言葉である。同じ言葉でありながら、それは常に新しい響きを持って発せられる。使い古された言葉が新しく生まれ変わることもある。人は自然と向き合い対話を続けていくことで、その様な言葉の世界を見出していくのではないか。
子どもの頃から遠い山並みを眺めるのが好きだ。信州の田舎に帰るたびにアルプスの山並みを見て感動したのを憶えている。幾重にも重なる山並みが次第に青みを帯びながら透明感を増していく風景を見るのが何よりも楽しみで、よくスケッチをした。でも、それらの山々に登ってみたいと思わなかった。遠い山並みは青く透明な膜の様に見え、私はそこにある存在感、「言葉にならない言葉」を感じていたからだ。それを「はるかなる遠い呼び声」と表現した人もいた。詩人には、遥か彼方で透明な膜がふるえ、微かに発する声がたしかに聞き取れるのだろう。 芸術にも言葉を蘇らせる力がある。それまであまり関心の無かった音楽や絵画に、突然強く惹かれ始めることがある。最近もある音楽を聴いていて、そんな体験をした。ふと音にも香りがあることに気が付いたのだ。ある日、印象派の作曲家ドビュッシーのピアノ曲が何となく耳に入って来ると、私の中で新しい感覚が目覚めた。それから後、彼のピアノ曲を聴きたくて仕方がなくなった。音が放つ微かな香りの移ろいを追っていくのが楽しいからだ。「音の香り」なんて言葉にすれば実にあいまいに違いない。でも、確かにそれは在る。 子どもにも言葉を蘇らせる力がある。毎日のように小学校や中学校に授業に行って、子ども達に向かって話をしていると、自分が「言葉にならない言葉」「声にならない声」に満たされた世界と接しながら、無心になって言葉を紡ごうとしていることに気が付くことがある。先日も、卒業を間近にした小学六年生達を前に、思わず「言葉にならない言葉、声にならない声を聞くことが出来る心を、大人になっても失わないでいてほしい」などと語っていた。世の中にはたくさんの言葉があるが、実はその数をはるかに超えた「言葉にならない言葉」で世界は満たされている。だから、人の思いも存在も、本当は「言葉にならない言葉」「声にならない声」でいっぱいなのだ。私はそれを「もやもや」「私の中の口ごもる子ども」と呼んできた。 現代社会では、言葉という言葉が何かを指し示す記号と化していく。それに伴い、わたしたちの空間も時間も貧しく乾いたものになっていくように感じられる。現代社会は「あいまいさ」を許さない。だから、明確な主張や定義された言葉によって、空間も時間も区切られていく一方だ。言葉という境界線によって細分化されていく世界の中で、ますます自然が見えなくなっていく。専門家や研究者と対話していて、私が時々感じる疲れや渇きの原因は、たぶんホルマリンで固定されたような専門用語のせいかもしれない。「あいまいさ」も「言葉にならない言葉」も、ただ「カオス」と言ってしまえばそれまでだ。でも、何か違うと思う。 かつてはもっと、人々は「言葉にはならない言葉」で語り合っていたはずだ。「あいまい」でいて、より確かに心を伝え合うことができていたのではないか。その中で豊かな文化も生まれた。たとえば、和歌の世界には掛詞がある。掛詞とは、ひとつの言葉に幾つもの意味を重ね合わせることで、奥行きのある世界を表現をする様式である。 花すすき又露ふかしほに出でて ながめじとおもふ秋のさかりを 新古今和歌集にある式子内親王が詠んだ歌だが、「ほに出でて」は「ススキの穂が出る」という意味と、古語で「ほに出る」という「表に現れる、出現する」という意味が重ねられている。もちろん「ほ」という音の響きに対する感覚もある。私にはこれらの意味が、「言葉にならない言葉」に満ちた世界から、言葉の世界へと交互に浮上してくるように感じられる。「言葉」と「言葉にならない世界」は、かつて膜一枚で接していたのではないか。和歌はこのふたつの世界の境界面にあって、ふたつの世界の対話を生み出す膜のようなものだと思う。だから、私達はいにしえの人々が発する言葉に、存在の豊かさや深さを感じるのではないか。 言語学者の丸山圭三郎は、芸術を「意識と混沌の間との生の円環運動」と呼んでいる。創造的な人間は混沌の中に飛び込み、生命を取り戻した言葉を持って再び意識の世界へと戻って来るということだ。私はそんなに激しい運動を想像していない。ふたつの世界の間に膜があり、その膜がゆっくりと波打ちながら様々な文様を浮き立たせるイメージだ。膜は時には「言葉にならない言葉」の世界に向かって谷のように沈み込み、再び言葉の世界に向かって浮上して山並みのように隆起する。文様は常に動いている。このような「波打つ膜」のイメージを、私はある縄文土器を見つめていてイメージした。その土器の作り手は細部にいたるまで動きが失われないように、細心の注意を払いながら文様を出現させている。そのことに気付いた瞬間に、六千年の時間の壁が一気に溶けて消え、すぐ側にその人が居るように感じられた。土器の表面で波打つ文様が、作り手の息づかいとなって聞こえてきたのだ。私は自分の頬に、ぬくもりを感じた。それは、自然と「言葉にならない言葉」で語り合う、その人が発した息のぬくもりである。 |
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| NPO法人アサザ基金 代表理事 飯島 博 |