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5・田子薬師堂と立木観音(恵隆寺)、勝常寺

 田子薬師堂は高田町から坂下町に抜ける街道沿いにひっそりと建っていた。中田観音のように土産物屋もなく訪れる人も少ない。しかし、薬師堂の建物は素晴らしかった。扇垂木、軒の組物も端正で美しく、四隅の軒の反り上がりが特に印象深かった。「会津旧事雑考」によると応永六年(1399)の創立という。                  

 只見線は会津若松から会津盆地の南側をぐるりと廻って坂下町から只見川沿いに新潟県小出町に南下する。国道49号線は会津盆地の中央を東西にまっすぐ坂下町を通り、阿賀野川沿いに新潟市に抜ける。国道が町を通り抜けて山道にかかる入り口に立木観音(恵隆寺)はあった。これまで見た観音堂の中ではもっとも大きく、鎌倉前期の建立という本堂の柱は太く、木割は雄大である。この観音堂は慶長18年の大地震で倒壊したという。ここから5キロメートルくらいにある熊野神社は慶長16年の大地震で倒壊した。同じ様な大地震が起きたのだろうか?。立木観音は名前の通り本来は立木に像を彫ったものである。茨城では八郷町にある西光院の立木観音が有名である。ご本尊は斗帷の中にあり、拝観料を払ってご本尊を拝礼する。

 立木観音の隣に民家が移築されている。旧五十嵐家住宅は中央が土座と言い、茨城では見たことのない土間に簀の子を敷いてその上に茣蓙が敷いてある。冬の寒い会津では土に近い方が冬暖かいのかもしれない。この家は移築したときに享保14年(1729)の墨書が発見され、建築年が判った。

 今回の最後の訪問地は勝常寺である。勝常寺は会津盆地の中央にあり、徳一大師が東北布教の中心として建立されたという。大師は茨城県で筑波山の他、多くの寺院を建立し、今でも徳一大師創建の寺院が数多くある。徳一大師は都から遠く離れたこの会津から中央で活躍していた最澄や空海に論争を挑んでいる。南都の華やかな仏教文化を離れ、この鄙びた会津に移り何を見ていたのであろうか。今回は見ることが出来なかったが勝常寺薬師堂には国宝に指定されている仏たちが居る。この仏たちは徳一大師の思いを私達に語ってくれるのだろう。しかし11月の第2週で封印され、次に見ることが出来るのは春になってからだという。
 私達は勝常寺を離れ、帰路に就いた。帰りには猪苗代の湖畔で蕎麦を食べてから高速道路に乗る予定だ。残念ながら湖畔のそば屋は休日であった。予定を変え、中山峠で会津の名残の蕎麦を食べ、磐梯熱海から高速道路に乗った。

 田子薬師堂 薬師堂の組物 立木観音堂 旧五十嵐家 勝常寺薬師堂

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