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雑感・「石岡」について


分類: 〔97/08〕石岡・古代都市の面影をたどる 地域: 石岡市
(登録日: 1999/12/21 更新日: 2024/01/17)

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撮影日: 1997/08/15 石岡市・高浜の海に面していた石岡台地の縁


2年ぶりの石岡採録


1997年8月に訪れた石岡をその年の9月に「〔97/08〕石岡路」として採録を始め、採録が中断したまま早くも2年以上が経過してしまいました。過ぎゆく時の早さに驚かされます。石岡は私にとっても特に興味がある対象地域ということもあり、この地域に手を付け始めると際限なく時間がかかって終わらなくなりそうだという多少の敬遠の気持ちが中断の理由にあったかもしれません。

そのような言い訳はさておき、霞ヶ浦*周辺地域をめぐるほどに、改めて石岡という地域の存在の大きさが意識されてきました。古代におけるこの地域(常陸国)の中心地であり、石岡の常陸総社宮がこの地域の神社の中枢にあることに代表されるように、今なお石岡がこの地域の中で文化的支柱として存在しているということの重みを感じないわけにはいきません。
 

土浦と対峙される石岡


近世から現代にかけて、霞ヶ浦*周辺地域の中心的役割を果たしてきたのが土浦であることに異論を唱える方はあまりいないでしょう。常陸国の中で水戸徳川家に次ぐ石高の藩であった土浦藩の城下町は、霞ヶ浦舟運によっても栄え、陸上交通の時代に入ってもなお、商業・交通の中心地として栄えてきました。茨城県南地方の行政の中心地としての役割も持っています。茨城県は、300万人もの人口をかかえながら、最大の都市・水戸市ですら約25万人に過ぎず、茨城県内でも人口が最も多い県南地方の中心地・土浦市が13万人余りの人口しかないことは、この地域の分散的特徴を端的に示しているように思います。おそらくこれからの21世紀には新興都市・つくば市が新たな中心の一極を担っていくものと思われます。このように歴史の表舞台に立った土浦、つくばに対し、古代からの中心地・石岡は、歴史的には長らく陰の存在であったと言えるかもしれません。

石岡はひとえに歴史の古さによって何よりも特徴づけられます。霞ヶ浦の湿地帯に開けた土浦の町は、近世以降の歴史しかなく(せいぜい中世までしか遡れない、その前は人すら住めない茫茫たる湿地だった)、筑波研究学園都市のつくば市はさらに短い歴史しかありません。
 

裏の霞ヶ浦に面する石岡


霞ヶ浦の上流域には二つの入り江、土浦入と高浜入があり、それぞれの入り江に土浦と石岡(石岡、高浜)が接しています。霞ヶ浦が作るこの地理的な構図は、表の霞ヶ浦(土浦)と裏の霞ヶ浦(石岡)という構図を作り出していたように思われます。私の実家のある高浜入の地域にはどちらかというと、うらぶれたイメージを抱いてきました。この感じ方は極めて主観的なものですが、霞ヶ浦*をめぐってみると、このイメージは私の主観とも言い切れないのではないだろうかと感じています。土浦周辺は都市開発が進み、土浦と連続する霞ヶ浦南岸の稲敷から千葉県佐原に至る水郷地帯では、今なお大胆な土地改良が展開し、美浦村のJRAトレセン誘致、日本TI誘致のような企業誘致なども行われたことなど、至るところに社会的先取性が感じられます。それに比べると、保守的で後進的なのが石岡〜高浜入沿岸の地域の特色であると言えるかもしれません。地元の方には「何を根拠のないことを言っているのだ」とお叱りを受けるかもしれません。しかし、このようなことを言うのは、おそらく私が高浜入沿岸の出身でもあることの地域的なアイデンティティから来るこだわりに動機があることも感じています。極めて個人的な動機に端を発する『マッピング霞ヶ浦*』は、その意味で、石岡を背景に置いているというのは決してこじつけでも屁理屈でもありません。私が生まれ育った地域と連続性、同質性が強い石岡を探ることは、この地域に新たな理解をもたらすというのが私の仮説です(それにしても『マッピング霞ヶ浦*』ではこの類いの仮説がいかに多いことか)。
 

台地に栄えた石岡文化


先取的な土浦〜稲敷〜水郷の霞ヶ浦の表社会・表文化が湖岸の低地(さらには干拓地)に形成され、保守的に思われる裏社会・裏文化の石岡〜高浜入沿岸が台地の上に形成されてきたことは面白い図式を描いているように思えてなりません。現在の低地はかつては霞ヶ浦の湖底ないしは低湿地(さらにその昔は流海の海底)だったわけですから、古い社会・文化が台地の上に形成されたのは自然の理でもあったわけです。両者の違いには、さながらヴェネチアとミラノを比較するぐらいの違いがあります。多くの古墳群が高浜入に面する堅固な台地に広がっていること、今なお古くからの集落が台地の上に連なっていることが、そうしたことを物語ってもいます。「石岡」という地名は、まさにこうした台地文化のイメージに相応しいとすら思います(石岡という地名の由来については改めて触れることにしましょう)。

この地域に対しては、今日的視点からは、乱開発されずに古いものや地域の個性が比較的よく保全されてよかったという肯定的な評価がされるのではないでしょうか。では、その石岡文化とは果たして何なのか。そもそもそのようなものが存在するのだろうか。それについては、これ以降の石岡探訪のページの中で検証していくことにしましょう。
 

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