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〔98/08〕出島用水をめぐる

分類: 〔98/08〕出島用水をめぐる
(登録日: 1998/08/29 更新日: 2024/01/17)

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1998/08/17:出島用水をめぐるルート



出島地方(主にかすみがうら市(旧霞ヶ浦町))の台地を潤す「出島用水」に沿って、用水路の終点・かすみがうら市坂の大平開拓から新生開拓を経て、取水口となる土浦市手野町の霞ヶ浦湖岸までをめぐりました。

現在の出島用水は地中化され、直接目に触れることのできる場所は限定されています。また、用水路は場所によっては道路と平行して走ってはいますが、道路から反れた場所を通ることもあり、この道程では、時々、用水路が確認できるという程度にしか、用水路そのものを目にすることができなくなっています。「台地を流れる霞ヶ浦の水」に興味を引かれながら、上のルートをたどってみました。
 

「出島用水」とは?


終戦直後から工事が進められていた「出島用水」は、約20年の歳月をかけ昭和40年代初頭に完工しました。霞ヶ浦の水を出島地方の台地に揚げて、約1,000ヘクタールの農地に供給しようという大規模なものです。1958年(昭和33年)に出島用水の揚水が始まりました。『出島村史誌』に1966年(昭和41年)当時の記載があるので、引用してみましょう。

出島用水事業が完工

 20年の歳月と1億7,700余万円の工費を投入して、工事が進められていた出島用水事業が完成し、その祝賀式が4月5日、新生開拓の分水場と南中学校の体育館で行われた。

 終戦直後、海外から引き揚げた人たちのため、緊急開拓事業として、民有林とその間に散在する畑を買収して入植させた。また、地元の零細農家に対しては、増反者として認め、食料の増産と自作農の創設をし、新農村の建設をしてきた。買収を実施した総面積は670ヘクタール。うち、開田面積300ヘクタール、開畑227ヘクタール。

 この事業は、開田面積300ヘクタールの潅漑用水として、水源を霞ヶ浦に求め、土浦市手野地内に揚水機場を設置。ここからポンプ揚水により、開田地域に送水するこの事業は、農林省が行う事業を県が行う代行開墾出島用水事業。

 この出島用水の完成によって、1,356トンの米と894トンの雑穀の収量が確保される見通しとなった。」

(『出島村史誌』、出島村史誌編纂委員会、p.155)
 

出島用水の歴史的意義


出島用水事業は、歴史的には霞ヶ浦の本格的な利水の先駆けの一つとして記憶されるものでしょう。引揚者に対する営農地の提供、戦後の米不足を背景とした水田の開発という社会的な役割を担っていました。霞ヶ浦沿岸の干拓地としては戦後最大規模の本新島干拓地(茨城県稲敷市(旧東町))の面積が572ヘクタールですから、527ヘクタールという出島土地改良区の農地面積がいかに広大なものであるかがご理解いただけるのではないかと思います。

出島地方は、三方が霞ヶ浦に面しながら、その土地の大半が台地であるという地形的な条件から、霞ヶ浦の豊かな水の恩恵を受けることができませんでした。出島用水が、引揚者の開拓地だけでなく、古来からの農地をも潤し、出島地方を一大農業地帯へと変貌させた社会的意義は大きかったのではないかと思います。
 

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