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桜川と霞ヶ浦*


分類: 〔98/12〕土浦・桜川と宍塚大池 地域: 土浦市
(登録日: 1999/05/17 更新日: 2021/01/03)

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土浦入と桜川


縄文時代、土浦の現在の低地が海であったことは、周辺の台地に数多くの貝塚が存在する事実によっても知られています。霞ヶ浦の土浦入に注ぐ桜川は、この低地のほぼ中央を流れる最も大きな河川です。土浦の低地を囲む筑波山地、稲敷台地、新治台地などからの湧き水がこの川に注ぎ、さらには霞ヶ浦の土浦入に注いでいます。宍塚大池の水もこの桜川を経由して霞ヶ浦に注いでいます。

V字型をなす霞ヶ浦には、二つの上流域があり、いずれも大きな入り江となっています。一つは土浦入、もう一つは高浜入です。この二つの上流域にはいくつかの共通点があります。

  • いずれも比較的大きな河川が入り江に注いでいる。土浦入には桜川、高浜入には恋瀬川。
  • 河川の下流域は比較的広大な低地である。
  • 河口周辺は近世から近代にかけて干拓された土地である。
  • 地盤が軟弱なこともあり、これらの低地は田圃として利用されるだけで、古来からの集落が少ない。
恋瀬川下流域は、既に『マッピング霞ヶ浦*』で採り上げましたが、桜川についてはあまり紹介する機会がなかったため、この企画で採り上げることにしました。
 

桜川の河川付け替え


過去に桜川下流の河川付け替えが行われたことは、あまり知られていない事実です。土浦城の城主だった土浦郷の若泉三郎という豪族が、土浦の水害対策として1459年から3年間をかけて筑波川(現在の桜川)の大規模な河川付け替え工事を行ったと伝えられています(永山正著『土浦の歴史』、東洋書院、1982年による)。現在は埋め立てられた旧川口川がその当時の桜川の旧川筋になります。銭亀橋は、その河川付け替え後の100年以上を経過した1613年(慶長18年)、水戸街道に沿って桜川に架けられました。しかし、そのさらに下流となる本流は現在の川筋とは異なっていたようです。

「幕末の土浦附近谷原図を見ると、桜川という名称はない。銭亀橋下流をずっとたどると、川口から三百九十一間の処で二つの流れに分かれている。現在桜川とよんでいる方の流れは、太郎兵衛川で桜川本流は右に流れ、八郎兵衛谷原と山口谷原の間で中須にぶつかり、二つに分かれて霞ヶ浦に入っている。」
(保立俊一著『水郷つちうら回想』「旧桜川について」、筑波書林、1994年、pp.28-29)
 

現在の桜川の姿


人為的に姿を変えてきたのが霞ヶ浦*という湖の特徴であることは、別のページでも述べました。これと同じく、人為的に姿を変えてきた川・桜川にもスポットを当ててみようというのが、この企画の狙いの一つです。桜川の下流には、現在、備前川の川筋が並行して通っています。桜川河口周辺が霞ヶ浦湖岸の低湿地だった頃の面影は、現在の川の風景からもうかがうことができます。
 

関連企画「〔99/01〕土浦・水郷都市の面影をたどる」


土浦の城下は水が要塞となる一方で、長い間に渡って水害という問題を残してきました。これは、霞ヶ浦の流域の一部でもある低湿地に形成された町の宿命でもあったわけです。この地域の中心都市として、また東京のベッドタウンとして都市開発の進んだ土浦の中にあって、今でも桜川流域には集落がまばらにしかありません。この田園風景を見れば、現在の土浦市街の場所が都市の立地にかなっていなかったことは明白です。自然条件に逆らって形成された都市、しかし舟運によって繁栄を手に入れた都市という土浦の問題は、桜川とその流域の低地を観察することによっても検証できるのではないだろうかというのが、ここでの関心事です。これと関連したテーマは、別の企画「〔99/01〕土浦・水郷都市の面影をたどる」でも採り上げました。
 
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