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釣りブームが招いた流域名の問題

分類: 霞ヶ浦*への視点
(登録日: 2000/03/07 更新日: 2024/04/07)

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歴史的な入り江の呼称


霞ヶ浦(西浦)には、いくつかの入り江があり、それぞれに歴史的な呼称があります。高浜入(たかはまいり)、土浦入(つちうらいり)、古渡入(ふっといり)、この三つの入り江の名称は、1901年(明治34年)の地図に記載されています。なぜか戦後の地図には、入り江名が記載されなくなったようです。しかし、現在でも、公的にこれらの名称が用いられます。昭和40年代に実施が計画されながら中止に至った「高浜入干拓」は、入り江名が公的に使用された代表的なものです。他にも「甘田入」「野田奈川」「余郷入」などの流域名が干拓地名として残っています。これらの入り江に対し、霞ヶ浦の中央部の広い流域は「三又沖」(みつまたおき)と呼ばれてきました。ただ、三又沖という流域名は地図に記載されることは少なかったようです。また、「霞ヶ浦」は「西浦」と呼ばれた歴史的経緯があり、地図には「霞ヶ浦(西浦)」と記されることがあります。すなわち、西浦とは霞ヶ浦そのもののエイリアス名です。建設省では、霞ヶ浦(西浦)、北浦、外浪逆浦、常陸利根川を包括して「霞ヶ浦」と呼んでいることから、単一の湖・霞ヶ浦を括弧付きで霞ヶ浦(西浦)とし、一級河川「霞ヶ浦」と区別しています。以上の呼称は、歴史的なものであると同時に、現在、公的に使用されている名称です。
 

釣りブームによる呼称の異変


昨今の釣りブームは、首都圏の都市部などから遠来する釣り人の増加現象をもたらし、このことが歴史的な呼称に異変をもたらしました。国土地理院の地図を見ると、入り江名は記載されていません。それぞれの入り江に呼称を与えて、霞ヶ浦のどこの流域で釣りをしたかを伝えたい、というニーズが発生したのでしょうか。釣り人の間では、高浜入にほぼ対応する流域は「東浦」、土浦入は「西浦」と呼ばれるようになり、これが釣りの世界で定着しつつあります。驚いたことに、三又沖を「本湖」と呼ぶ人もいます。さらに、<霞ヶ浦=西浦>であったものが<土浦入=西浦>とされてしまいました。こういった新たな呼称は、特定の人々の間で通用する非公的なものと思っていましたが、釣り人口が増加すると、これらの新呼称は抗しがたい力となって働きます。

『フィッシングマップ[湖沼編][詳細]霞ヶ浦』(昭文社)の地図には、何と土浦入は西浦、高浜入は東浦と明記されました。この現象をどのように考えたらいいのでしょうか。
 

高浜入と新「東浦」の解釈の違い


入り江の境界は元々あいまいなもので、境界線は地形的な特徴からあいまいに線引きされています。私は、高浜入はかすみがうら市柏崎の岬、行方市(旧玉造町)浜の緩やかに突き出した岬の辺りを境界線とみなした流域とみなしてきました。あるいは、かすみがうら市田伏の岬、行方市(旧玉造町)の高須の緩やかに突き出した岬を境界線とみなすという解釈もあり得ます。これに対し、釣り人の「東浦」は、霞ヶ浦大橋を境界線としているようです。指し示す流域はほぼ同じでも、それを他の流域と区別する境界の概念が違うのです。霞ヶ浦大橋開通後に訪れた釣りブームの時代的背景が、このような流域の認識の差をもたらしたのでしょう。
 

撮影日: 1998/01/01 霞ヶ浦大橋(高浜入はいつしか橋を境に東浦に?!)


呼称問題は誰の責任か


ここで責任を問うのは物騒なことかもしれません。かと言って誰の責任でもないとも言い切れません。第一に、曖昧なる「霞ヶ浦」を明確に定義しないまま、ある時には「霞ヶ浦(西浦)」を霞ヶ浦と呼び、北浦などの他の流域を包括した時にも「霞ヶ浦」と呼ぶ、この曖昧さを許容し続けてきた霞ヶ浦流域の社会(流域の人々)に責任の一端はあります。この矛盾を矛盾と感じずに、あるいは、矛盾を感じつつも定義の混乱を甘んじてきた地元の人々の意識を包容力があると肯定的に評価するか、曖昧すぎると批判するかは意見の分かれるところではないかと思います。あるいは、このような問題に決着をつけなければならないという意識にそもそもの問題があるのだという御指摘があるかもしれません。ただ正直に申し上げて、私は呼称の曖昧さは現実的に困ったことだと感じている者の一人です。誰のせいというよりも、「霞ヶ浦」の二重性をはっきりと峻別して認識を深めよう、これが私の立場です。第二に、入り江名を地図に記載しなかった国土地理院にも責任の一端があります。釣り人が流域を何らかの名前で呼びたい、というのは自然な欲求ではないでしょうか。地図上に入り江名が与えられていないために(または名称を知らないために)新たな呼称を創造したのは、釣り人のせいというよりも、国土地理院の地図に起因する問題でしょう。なぜ明治時代の地図に明記されていた入り江名がその後外されたのか、これも少し疑問に感じるところです。
 

歴史的呼称にも問題はあるかもしれない


こう思うのは、霞ヶ浦の広い流域を「三又沖」と呼ぶことに地域での意識の違いを感じるからです。確かに、高浜入沿岸、土浦入沿岸、出島地方沿岸から流域の遠方を見ると、三又状の流域の沖合いという認識ができるのかもしれません。出島の先端部にある歩崎から霞ヶ浦を遠望すると、確かにここは三又沖だ、という認識が生まれます。しかし、霞ヶ浦の下流域からは、このような認識は生まれません。地域の偏在性が、呼称に恣意性をもたらしていると思います。旧牛堀町(現在は潮来市)や稲敷市(旧東町)の湖岸に立って、地元の方々に対し「ここの流域は三又沖ですよ」とは恥ずかしくてとても言えません。このような想定をして見ると、歴史的な呼称が、ある地域でしか通用しない局所的なスコープしか持っていないことに気づかされます。確かに霞ヶ浦*には、グローバルなスコープは歴史的になかったと言えます。これが、霞ヶ浦*の特性だと言うことはできます。
 

呼称問題に対する考え方


長い歴史の中では、地名、湖沼名などに変遷が見られます。入り海であった時代の「流海(ながれうみ)」は、いつの時代からか「霞の浦」、さらに「霞ヶ浦」と呼ばれるようになり、現在に至りました。この名称を変えることができないことは、誰もが納得なさるのではないでしょうか。では一体、湖沼名は誰が決めたり変更したりすることができるのでしょうか。「霞ヶ浦」という曖昧な湖沼の定義に問題があることは、この企画「霞ヶ浦*への視点」で冒頭に指摘した通りです。霞ヶ浦、北浦などの流域を包括した名称としての「霞ヶ浦」と単一の湖「霞ヶ浦(西浦)」を区別するために、前者を『マッピング霞ヶ浦*』では、「霞ヶ浦*」として、名称に変更は与えないままに両者を区別するという苦肉の策でとりあえず解決しています。「霞ヶ浦*」は私の個人的な提案です。「霞ヶ浦*」は、呼称としては「霞ヶ浦」です。ただし、混乱を避けるために便宜的に*修飾をしているだけです。
 

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撮影日: 1998/08/16 行方市橋門(釣り客の多い霞ヶ浦湖岸)


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