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中心なき分散構造の陸際「霞ヶ浦*」

分類: 霞ヶ浦*への視点
(登録日: 1998/12/07 更新日: 2024/01/17)

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常陸国府と霞ヶ浦*


霞ヶ浦*の古い記録としては、奈良時代に編纂された『常陸国風土記』が知られています。当時の霞ヶ浦*が太平洋の入り海で「流海(ながれうみ)」と呼ばれていたことは、『常陸国風土記』に記されています。この風土記には、当時の常陸国府(現在の石岡市)にほど近い高浜の海岸の情景が記されています。常陸国の中心地に霞ヶ浦*が接していたことは、霞ヶ浦を理解する上で一つの視点となります。
 

撮影日: 1997/11/30 石岡市石岡(恋瀬川沿い・風土記時代の流海流域)


水戸藩と霞ヶ浦*


徳川御三家の一つ、水戸藩が常陸国の多く、とりわけ霞ヶ浦*の周辺地域を治めたことが、辺境「霞ヶ浦*」を生む要因になったという見方はできます。現代に至る社会的な構造は、近世に形成されてきました。常陸国の中心地・水戸は、近代の茨城県成立後も中心地となり、現在に至りました。水戸藩の存在の大きさ、とりわけ水戸藩が幕末の歴史に大きく関わったこともあり、茨城県史では、水戸、水戸藩の記述が勢い多くなります。総じて、霞ヶ浦*の周辺地域が周縁的に扱われてきました。霞ヶ浦*周辺は、総じて水戸藩領が少なく、土浦藩、石岡藩、麻生藩、志筑藩諸藩の領地の他、天領(幕府の直轄領)と旗本領が入り組んだ地域でした。こうした状況も、霞ヶ浦*の辺境的特性を育んだと考えられます(藩領の詳細→「市町村ちょっと見」参照)。
 

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撮影日: 1998/11/22 行方市麻生(霞ヶ浦に近い麻生城祉・羽黒山公園)


中心のない地域の際・霞ヶ浦*


霞ヶ浦*周辺に諸藩領が入り組んでいたことは、中心のない地域という、地域的な独自性を育んだという見方もできます。同時に、幕府による利根川付け替えと水運路の整備は、この地域に異文化、異郷との「際」という側面をもたらしました。水戸藩主・徳川光圀が、他国の情報を摂取する情報要衝地として潮来を重視したことは知られています。
 

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撮影日: 1998/08/16 潮来市潮来(常陸利根川の対岸は千葉県)


現在の霞ヶ浦*の中心地はどこに?


沿岸に多くの人々が暮らしながら、水域によって隔てられて地域構造が分散型を示しているのは、霞ヶ浦*周辺地域の最大の特徴と言っていいかもしれません。琵琶湖沿岸の中心都市は大津市ですが、霞ヶ浦*にこのような求心的な中核都市があるかと言うと、ありません。土浦市が中心にはなっていますが、霞ヶ浦*の一番奥まった入り江に面しているせいか、求心力はそれほど強くありません。潮来市は霞ヶ浦*下流域の好位置にありますが、都市としての規模は小さく、やはり求心力がありません。建設省、茨城県などの河川管理施設などの多くは、土浦市と潮来市の二極に分散しているようです。
 
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